【コラム】インドネシアの紙幣に印刷されている人物とは?(後半)

前回のコラム「【コラム】インドネシアの紙幣に印刷されている人物とは?(前半)」  に引き続き、2016年にデザインが更新されたインドネシアの紙幣について、新旧それぞれの紙幣に載っている偉人の生い立ちを解説していきます。

 

10000ルピア紙幣

▲上が旧版(スルタン・マハムッド・バダルディン二世)、下が新版(フランス・カイシイエポ)

これまで紹介した偉人たちは皆、20世紀に活躍した比較的新しい英雄でしたが、旧10.000ルピア紙幣に載っているのは、19世紀初頭のパレンバン・ダルサラーム王国の王位スルタン・マハムッド・バダルディン二世です。

彼は在位中、イギリスとの不平等条約の締結やオランダとのメンテン戦争などを通して、植民地支配になんとか抵抗していましたが、最終的にオランダに支配されたことで、家族とともに追放されてしまいました。

 

他方、新10.000ルピア紙幣の偉人は、パプア州の知事フランス・カイシイエポです。

カイシイエポは20代からインドネシア民族主義運動に参加し、独立への熱い想いを育んでいました。

この想いからカイシイエポは、インドネシア独立後も依然としてオランダ植民地下にあった故郷パプア州をインドネシア共和国に統合させる運動へと走りました。

最終的にイリア党を設立し、スカルノ大統領の援助のもと、植民地政府からパプア州を独立することに成功したことから、「パプア州独立の父」とも言えます。

 

5000ルピア紙幣

▲上が 旧版(トゥアンク・イマーム・ボンジョル)、下が新版(イダム・ハリド)

ターバンを巻いた旧5.000ルピア紙幣の顔は、パドリ戦争の英雄トゥアンク・イマーム・ボンジョルです。

パドリ戦争は、西スマトラのパガルユン王国での対オランダ植民地政府の戦いのことで、事件の発端は19世紀初頭にパガルユン王国の主導者たちがイスラム教の規則を原住民に施行しようとしたことです。

パガルユン王国の主導者(パドリ)たちと原住民の間で合意が取れず、しびれを切らした原住民は1821年
にオランダ植民地政府に後援を頼んでしまいます。

トゥアンク・イマーム・ボンジョルが率いるパドリの軍隊は非常に強い勢力で対抗し、オランダ側に和平条約を締結させます。

しかし、屈服したオランダ側が数年後、パドリの村を襲撃することで和平を裏切り、戦況は泥沼化します。

オランダの裏切り直後、原住民はオランダへの敵対心を露わにしてパドリの戦力へと合流します。

オランダ植民地政府は首都バタヴィアからさらなる兵力を要請し、インドネシア史に幾度となく出現するインドネシアvsオランダ植民地政府へと進んでいきます。

バタヴィアからの増兵を得たオランダ植民地政府は、パドリによる6ヶ月の籠城を攻め倒し、最終的にはパドリ側の敗北として終戦条約を結びました。

そのため、パガルユン王国の英雄トゥアンク・イマーム・ボンジョルは流刑されてしまいます。

しかしながら、オランダ植民地政府に最後まで抵抗した軍隊長として、トゥアンク・イマーム・ボンジョルはインドネシアの英雄のひとりに掲げられたのです。

 

続いて、ソンコック(ムスリム男性用の帽子)を被っている新5000ルピア紙幣の男性は、元閣僚のイダム・ハリドです。

イスラム教学校を卒業したのち政界に入り、スカルノ大統領時代は副首相として活躍しました。

また、スハルト政権下では国民福祉大臣や下院議員を歴任した堅実な政治家として独立後のインドネシアを支えていました。

ちなみに、黒色のソンコックはスカルノ大統領を筆頭にインドネシア独立運動に携わった人々が好んで使用していたため、インドネシア民族主義の象徴として扱われることもあります。

 

2000ルピア紙幣

▲上が旧版(アンタサリ王)、下が新版(モハマド・フスニ・タムリン)

旧2.000ルピア紙幣のアンタサリ王は、西ジャワと中部ジャワの境にあるバンジャルという王国の王でした。

彼が60歳を過ぎた1859年、2人の後継者候補がおり、1人はオランダ植民地政府の後ろ盾をもつタムジド王、対抗馬は直系のヒダヤト王子でした。

オランダ植民地政府がタムジド王を利用して王国を乗っ取ろうとする魂胆は明らかだったため、アンタサリ王はヒダヤト王子とともに6000人の軍隊を率いて、バンジャルマシン戦争にてオランダ兵に対抗します。

はじめは優勢だったアンタサリ軍でしたが、オランダ側が援軍を要請すると押され始め、天然痘の流行によりアンタサリ王が死去した結果、王国側の敗北が確定しました。

旧5000ルピア紙幣のトゥアンク・イマーム・ボンジョルと同様に、オランダ植民地政府による侵略への対抗として、アンタサリ王は死後にインドネシアの国家英雄として表彰されています。

 

新2000ルピア紙幣のモハマド・フスニ・タムリンは、オランダ人とベタウィ(バタヴィアの労働者)のハーフで、バタヴィア議会の最初のインドネシア人議員を務めました。

彼が政界に入るきっかけは1929年にオランダ植民地政府がバタヴィアの副市長を決定する際、優秀かつ経験が豊富な現地のインドネシア人を登用するのではなく、経験が浅く実績もないオランダ人を選んだ事件にあります。

この判断は現地の人々の反感を買い、大きなデモ運動の末、オランダ人の代わりに現地の人々から厚い信頼を置かれていたタムリンが副市長となりました。

その後、バタヴィア議会への勧誘を二度も断り、三度目の推薦でやっと議会に入ることを決意します。

オランダ植民地政府の差別と戦ったタムリンですが、死に際にはオランダ政府からの嫌がらせを多く受けたことから、死因は暗殺だとも言われています。

 

1000ルピア紙幣

▲上が旧版(パティムラ隊長)、下が新版(チュ・ニャ・ムティア)

現在のインドネシアの紙幣の中で最も額面が小さい1000ルピア紙幣の偉人は、新旧ともにオランダ政府の侵略に抵抗した兵隊長です。

旧版のパティムラ隊長はマルク諸島のサパルア島にて最後まで戦い続けた隊長で、最終的にはオランダ政府により首吊りの刑にされてしまいます。

 

また、新1000ルピア紙幣に載っているのは、アチェ王国の兵士チュ・ニャ・ムティアです。

彼女は夫のチュ・モハマドとともにオランダ軍のアチェ侵略に抵抗し、11年の抗争の末に射殺されてしまいます。

 

まとめ

全体的な傾向として、旧版の紙幣に載っている偉人はインドネシア独立前に、オランダ植民地政府に対して物理的な抵抗をした軍人が多いですが、新版の紙幣に載っている偉人はインドネシア独立前後に政治や教育を通して独立後の国家の基盤を築いた教養人が多いように見えます。

これはインドネシア共和国の政治体制がスハルト政権のような国軍出身の大統領による統制から、現在のジョコウィ政権のような文民大統領による民主制へと変化した模様を表しているようにも考えられます。

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株式会社インドネシア総合研究所
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