【コラム】ジャカルタの水路の歴史

前回のコラムでもご紹介した通り、インドネシアの首都ジャカルタは近年深刻な洪水で悩まされています。
毎年のように洪水による人的被害や経済損失が発生し、首都移転の主要因になるほどの大規模な社会問題となっています。
前回のコラムでは、洪水の主な要因である地盤沈下やゴミ問題について解説しました。
今回は、そのような浸水被害への予防策として、400年前から現在に至るまで使用されているジャカルタの水路システムについて、その古い歴史を遡り解説します。
ジャカルタ中心部の水路
大航海時代に突入する直前の16世紀末までは、現在のジャカルタがあるジャワ島には複数の港市国家が存在していました。
バンテン王国やマタラム王国に代表されるこれらの国家は、ムスリム商人との貿易を通して繁栄していましたが、17世紀に入るとオランダ艦隊が来航し、1619年にはオランダ東インド会社の貿易拠点としてバンテン王国の首都ジャヤカルタに「バタヴィア」を建設しました。
▲17世紀のバタヴィア
出典: Vrije Universiteit Amsterdam, “Vue de l'isle and de la ville de Batavia appartment aux Hollandois , pour la Compagnie des Indes,
http://imagebase.ubvu.vu.nl/cdm/ref/collection/krt/id/2719 )
オランダ植民地政府はバタヴィアの初期整備の際、オランダ本国の都市を参考にし、洪水や高潮時も浸水しないように掘割や運河、排水路を張り巡らせ、それらを輸送水路としても利用することを目指しました。
1632年にバタヴィアの中心を流れるチリウン川を直線化すると、その東西両岸にチリウン川を軸として垂直に交わる水路で区画された市街地を建設しました。(図1参照)
図1: 1667年のバタヴィアの地図
出典: Nationaal Museum van Wereldculturen, “Kaart voorstellende het Kasteel en de Stad Batavia in het jaar 1667
http://www.tropenmuseum.nl/
さらに1645年、バタヴィア政府が近隣のバンテン王国とマタラム王国との和平を成立すると、市壁の外の土地の開発が進み、掘割や運河が次々と掘られました。
バタヴィアから4kmほど西側を流れるアンケ川がグロゴール川とクルクット川を経由してチリウン川と結ばれ、反対側ではバタヴィアから4kmほど東側を流れるソンタル川もチリウン川と繋がりました。
このように民間、政府双方の積極的な事業展開により、バタヴィア近辺(現在のジャカルタ中心部)の水路の原型は17世紀から18世紀にかけて敷設されました。
参考: 松田浩子, オランダ東インド会社によるバタヴィアの水路網と空間形成, 2013
https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/78/685/78_705/_pdf
ジャカルタ西部の水路
チリウン川の氾濫は毎年のようにバタヴィア中心部に水害をもたらしており、1918年の大洪水の被害を受けてオランダ植民地政府はバタヴィアの洪水制御システムのマzスタープランを起草しました。
1919年に建設が始まったこの計画では、バタヴィア西部に大規模な放水路を掘り、氾濫の主要因だったチリウン川の流路をバタヴィア中心部に入る手前のマンガライ水門で西折させました。
さらに、カレット水門という新たな水門を建設しクルクット川と接合し、そのまま北上させてムアラアンケ港に排水しました。
▲青い丸で囲まれた地域が前章で紹介した「バタヴィア中心部」
出典:Dinas Pekerjaan Umum, Provinsi DKI Jakart http://www.serverjakarta.com/peta_13sungai.aspx より弊社作成
この大規模な放水路は西放水路(BKB)と呼ばれ、100年が経った現在でもジャカルタの洪水対策の主軸として用いられています。
100年間を通してBKBは段階的に補強工事を繰り返しており、建設当初と比較すると排水能力はマンガライ水門、カレット水門、ムアラアンケ港のそれぞれで着実に増えています。(下図参照)
出典: Merdeka.com, “Cerita pembangunan Kanal Banjir Barat di zaman Belanda”より弊社作成(閲覧日:2020年1月27日)
https://www.merdeka.com/peristiwa/cerita-pembangunan-kanal-banjir-barat-di-zaman-belanda.html
ジャカルタ東部の水路
西放水路が1920年に建設された事例と比較して、東放水路ははるかに遅れて建設が始まりました。
インドネシア独立から約20年も経過した1973年になって、やっと東側の洪水制御事業に関するマスタープランが作成されました。
しかし、深刻な資金不足から計画はあっけなく頓挫し、さらに20年が経過。2002年に発生した史上最悪規模の洪水を受けて、政府は再び重い腰をあげます。
2003年に待ち望んでいた建設が開始しましたが、ほどなくして土地取得の問題からまたしても中断されます。
このように、大規模な洪水の被害が発生すると、政府は対応を迫られるため洪水対策に取り組みますが、すぐに中断され、次の洪水被害が起こるまで動かないことが多くなっています。
参考: 東京海上日動, インドネシア・ジャカルタの水災リスクと企業の対応,
https://www.tokiorisk.co.jp/publication/report/riskmanagement/pdf/pdf-riskmanagement-117.pdf
2015年には最後の工程として、東放水路の西端をチリウン川に繋げる工事が開始しましたが、こちらも遅々として進まず、未だに土地所有問題で停滞しています。
▲水色部分が完成した東放水路、赤色部分がチリウン川と放水路を繋ぐ未着工の土地
出典:Dinas Pekerjaan Umum, Provinsi DKI Jakarta http://www.serverjakarta.com/peta_13sungai.aspx より弊社作成
長い歴史を持つジャカルタの水路ですが、未だに完成からは遠いようです。
弊社では現地のインフラに関する調査や専門家へのインタビューなどを行うことも可能です。
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