インドネシア高速鉄道ウーシュ(Whoosh)の債務問題 ― 財政責任と制度的課題からみる国家プロジェクトの持続性 ―

ジャカルタ〜バンドン間を結ぶインドネシア初の高速鉄道、通称「ウーシュ(Whoosh)」は、2023年10月に運行を開始しました。開業から1年以上が経過した現在も、この高速鉄道はなお、インドネシア社会における国家的議論の中心にあります。

ウーシュは、中国の支援を受けながら、ジョコ・ウィドド前政権のもとで2015年に正式に採択され、体制整備が進められました。翌2016年には建設がスタートし、国家プロジェクトとして大きな期待を集めます。もっとも、当初およそ60億米ドルと見込まれていた事業費は、用地取得の遅れや資材価格の高騰、さらには為替変動といった複合的な要因が重なり、最終的には約72〜73億米ドル規模へと膨らみました。

建設当時、インドネシアにおけるインフラ近代化の象徴として大きな期待を集めたウーシュですが、運営採算や債務返済をめぐる課題はいまなお重くのしかかっています。以下では、最新のデータと政策動向を踏まえながら、その構造的な問題と制度的な課題について検討していきます。

(画像1. 出発を待つウーシュ) 

   

目次

1.背景:国家的プロジェクトから財政負担へ

ウーシュは、総延長約142kmを誇り、インドネシア・ジャカルタとバンドンを最短36〜45分で結ぶ高速鉄道として、2023年10月に営業を開始しました。当初、事業費は約60億米ドルと見込まれていましたが、用地費や資材費の上昇、為替変動などの影響を受け、最終的には72〜73億米ドル規模へと増加したと、複数の報道が伝えています。

運賃は通常15万〜25万ルピア(時間帯変動)で、在来線の約2〜3倍となっており、利用者にとっては中距離移動の「プレミアム交通機関」と位置づけられています。その結果、日平均利用者数は1.6〜1.8万人前後(KCIC発表)と一定の需要はあるものの、初期需要予測(3〜6万人/日)を下回っており、乗客数は当初予想の約3分の1にとどまっているとの指摘が今年8月の議会公聴会でありました。

運営会社は、インドネシアと中国の合弁企業である「インドネシア・中国高速鉄道(KCIC)」で、同社は建設費の増大と初期需要の伸び悩みを背景に、依然として赤字構造が続いています。とりわけ、中国開発銀行(CDB)からの借入に伴う利払い負担(年約1〜2兆ルピア規模と報道)は、経営の大きな重荷となっています。

こうした状況を受け、プラボウォ大統領は2025年11月、新タナアバン駅において「本事業の債務は国家の責任として引き受ける」と述べ、国家予算による対応を明言しました。あわせて、年1.2兆ルピアの拠出に言及し、政府主導で財政支援と債務整理の枠組みを構築する方針を示しています。

このプラボウォ大統領の発言は、ウーシュの債務問題をめぐる市場や投資家の懸念に応えると同時に、国家プロジェクトとしての運営に対する信頼回復を狙った、強い政治的メッセージとしても受け止められています。

(画像2. 新タナアバン駅の落成式に出席したプラボウォ大統領)

2.現状分析:マクロ経済の拡大とプロジェクト赤字の乖離

ウーシュの利用者数は、前述のとおり、1日平均1.6〜1.8万人とされ、一定の需要は確認されています。しかし、運賃水準が通常鉄道より高額であることに加え、ジャカルタ〜バンドン間142キロメートルという比較的短距離区間であることから、通勤・通学利用には適さず、定期的な収益の安定化には至っていません。

一方で、インドネシア経済全体は堅調な成長を続けています。2025年時点では、消費者信頼指数が100〜115、製造業PMIも50を維持し、国内投資も増加傾向にあります。こうしたマクロ環境の好調さと、ウーシュの赤字構造との乖離が、政府にとっては「経済健全化の中で、なぜウーシュのみが赤字構造を続けるのか」という説明責任を伴う、政治的な課題となっています。

インドネシア政治世論研究所(IPO)のデディ・クルニア・シャー氏は、ウーシュの赤字構造や費用超過が、国内外の投資家に対して「シグナル」として作用すると指摘しています。だからこそ、監査と透明性の確保が欠かせない、というわけです。なかでも焦点は、国営企業(BUMN)間の資金移転や補助金支出の仕組みをどこまで可視化できるか。これが、今後の国際投資交渉における信頼維持を左右すると見られています。

 (画像3. 停車中のウーシュ)

3.政府対応:PSOスキームと協調型返済モデル

インドネシア政府はウーシュの財政課題に対して、現時点では、国家投資管理庁(ダナンタラ)を軸に動き始めています。具体的には、債務返済の一部を「公共サービス義務(PSO)」のスキームに組み込む案を検討しているのです。

PSOとは、公共交通やエネルギーなど、社会的便益の高い事業に対して政府が補助金や運営支援を行う制度です。政府とダナンタラの説明によれば、ウーシュの運営補填にPSOを適用することを検討しており、これによって運賃の上昇を抑えつつ、一定の需要を確保していく狙いがある、というわけです。

ただし、ここには大事な前提があります。PSOは本来、運賃抑制や利用促進のための補助であり、債務返済を恒久的に肩代わりする仕組みではありません。だからこそ政府も、PSOを中期的な財政安定化の“緩衝材”として位置づけつつ、抜本的な財政再編については別途の制度設計が必要だと認識している、という構図になっています。

具体策としては、KCICの資本構成の見直しや、国営建設企業ウィジャヤ・カルヤ(WIKA)を含む株主再編の可能性が検討されています。単なる資金注入ではなく、持ち分構造そのものを組み替えることで、赤字と債務を抱える体制を立て直そうとする動きです。あわせて、鉄道関連事業の民間開放も進める方針が示されています。沿線開発や観光振興、さらには物流ハブの形成などを組み合わせ、運賃収入に依存しない複合的な収益構造を構築していく考えです。ダナンタラCEOのロサン・ルスラニ氏は、国営企業配当を財源とした債務処理の可能性にも言及し、「政府・ダナンタラ・KCICの三者が協調して枠組みを形成する」と述べています。

4.制度的課題:透明性・公共性・法的整合性の確保

ウーシュの課題は、財務だけにとどまりません。制度的な構造そのものとも深く結びついています。

第一に問われるのは、公共事業の入札・調達プロセスにおける透明性の欠如です。この点をめぐっては、建設段階での価格調整や下請け契約をめぐる不正の可能性について、汚職撲滅委員会(KPK)が情報収集や調査を進めている、と報じられています。現時点で正式な結論が出たわけでも、重大な摘発に至ったわけでもありません。とはいえ、プロジェクト管理体制の脆弱さが、あらためて表面化した―そう受け止めざるを得ない状況です。

第二に、政府と国営企業の財政関係が不明瞭である点です。補助金なのか、債務保証なのか、あるいは株主出資なのか―その境界が曖昧なままでは、説明の筋が通りにくくなります。しかも、この曖昧さはインドネシア国内の問題にとどまりません。国際会計基準(IFRS)上の「公的債務分類」の扱いに影響し得るほか、対外信用格付けにも波及する可能性があります。政府と国営企業の財政関係をどこまで明確化できるかは、ウーシュの後始末だけでなく、今後の国際投資環境そのものに直結していきます。

第三に、公共交通としての「公共性」をどう定義するのか、その前提自体が再検討を迫られています。ジャカルタ〜バンドン間は確かに主要な経済圏を結びますが、地方都市や通勤層への恩恵は限定的です。その結果、公共投資としての費用対効果、すなわちC/B比の評価が揺らいでいる状況です。

これらの問題は、プラボウォ政権が掲げる「継続と是正」という政策理念において、まさに試金石となります。前政権から引き継いだ大型プロジェクトを、ただ完成させればよいという話ではありません。制度的信頼をいかに再構築するのか、そしてガバナンスをどう強化するのか―その積み重ねを通じて、国家事業モデルそのものを再定義することが求められています。

(画像4. 田園地帯を走るウーシュ)

5.展望:国家的信頼回復とインフラ政策の再構築へ

プラボウォ大統領の「国家の責任」という発言は、単にウーシュの債務返済を指すものではありません。むしろ、大型インフラ事業を通じて、国家が国民経済と国際社会の信頼をいかに再構築していくのか―その長期的課題に対する宣言として位置づけられます。

今後、政府が重点的に取り組むべき点は、以下の3点です。

  • PSOに依存しすぎない財政再建スキームの確立
  • 汚職防止と説明責任を徹底するための監査制度の強化
  • 沿線開発や都市交通との連携による、収益多角化モデルの構築

ウーシュ問題は、インドネシアのインフラ発展史において、「建設の時代」から「制度的信頼の時代」への転換点を象徴する事例です。財政健全性、公共性、説明責任という三要素をどのように調和させるかが、プラボウォ政権の評価を左右し、今後の国家プロジェクトの持続性にも影響を及ぼすことになるでしょう。


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また、個別プロジェクトの事業性評価(FS)、PSO(Public Service Obligation:公共サービス義務)およびPPPスキーム(Public–Private Partnership:官民連携)の設計支援、関連法規・政策のリサーチなど、実務に直結するリサーチとコンサルティングサービスも承っております。

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 参考文献リスト

【A】高速鉄道 Whoosh の概要・建設・コスト・利用状況

● 2023年

  1. 2023年4月14日
      Optika.id公式WEBサイト”Biaya Bengkak Lagi, Proyek KCJB Jadi Sorotan Publik!” URL:https://optika.id/2023/04/14/biaya-bengkak-lagi-proyek-kcjb-jadi-sorotan-publik/
  2. 2023年9月25日
      IDEAS(Institute for Demographic and Poverty Studies)公式WEBサイト
      ”Disebut sebagai Jebakan China, Berapa Bunga Utang Kereta Cepat Jakarta-Bandung?” URL:https://ideas.or.id/2023/09/25/disebut-sebagai-jebakan-china-berapa-bunga-utang-kereta-cepat-jakarta-bandung/

● 2024年

● 2025年


【B】債務・利払い・Danantara/PSO スキーム関連

● 2023年

● 2025年


【C】KPK(汚職調査・土地買収問題)関連

● 2024–2025年(KPKの事前調査の継続)

  1. 2025年11月10日
      Intime.id公式WEBサイト
      ”KPK Beberkan Modus Korupsi Proyek KCJB, Tanah Negara Dijual Lagi ke Negara, Harga Dimark-Up”
      URL:https://intime.id/kpk-beberkan-modus-korupsi-proyek-kcjb-tanah-negara-dijual-lagi-ke-negara-harga-dimark-up/
  2. 2025年11月11日
      Lombok Post(Jawaposグループ)公式WEBサイト
      ”Penyelidikan Dugaan Korupsi Proyek Kereta Cepat Whoosh, KPK Terkait Pembebasan Lahan”
      URL:https://lombokpost.jawapos.com/nasional/1506815643/penyelidikan-dugaan-korupsi-proyek-kereta-cepat-whoosh-kpk-terkait-pembebasan-lahan
  3. 2025年12月(記事日)
      MonitorIndonesia.com公式WEBサイト
      ”KPK Selidiki Sejumlah Pengadaan Lahan untuk Proyek Kereta Cepat Whoosh”
      URL:https://monitorindonesia.com/hukum/read/2025/12/617528/kpk-selidiki-sejumlah-pengadaan-lahan-untuk-proyek-kereta-cepat-whoosh

【D】IPO(Indonesia Political Opinion)・専門家コメント

  • 2025年(詳細日付確認できる最新報道)
      Pikiran Rakyat公式WEBサイト
      ”IPO: Utang KCJB Berpotensi Ganggu Kepercayaan Investor”
      URL:https://www.pikiran-rakyat.com
    (※IPO所長 Dedi Kurnia Syah による「投資家へのシグナル効果」発言の引用記事)

【E】マクロ経済指標(CCI・PMI・IKI)

● 2025年


画像出典リスト

画像1 出発を待つウーシュ(Whoosh) 著作権フリー素材
画像2 Bisnis.com 経済ニュースサイト”Ini Janji Prabowo Usai Resmikan Wajah Baru Stasiun Tanah Abang”
URL:https://ekonomi.bisnis.com/read/20251104/98/1926023/ini-janji-prabowo-usai-resmikan-wajah-baru-stasiun-tanah-abang#goog_rewarded
画像3 停車中のウーシュ(Whoosh) 著作権フリー素材
画像4 田園地帯を走るウーシュ(Whoosh) 著作権フリー素材

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